PROFILE TOP PAGEへ

BLACK PROFILE


※結構長い文です。読みたい人だけ読んでください。いちばん下に文中注釈の説明あり。

 私はいわいるチャートマニアである。ちょっと前の言い方だと「オタク」という人種である。この私にも以下のような過去があった・・・・
・・・・あれは忘れもしない1978年(昭和53年)11月2日。当時私は9才。
次の日が文化の日で休みと言う事で,私は同い年の友達の家へ泊まりに行った。
夜になりいつものように友達とはしゃいでいたのだが、夜9時・・・・「ザ ベストテン」が始まった・・・・・
 そう、1978年11月2日は木曜日であったのだ。
その友達は2つ上の兄貴もいたので,その当時から「ザ ベストテン」を見ていた。
 私も付き合う事になった。
 その当時私は「ませガキ」で、ポールモーリア(注1) を愛聴曲としており、いわいる「歌謡曲」など、全く聴かなかった。
   BUT! 私はのめり込んだ。
 久米宏と黒柳徹子のテンポのよいMCもさることながら、ツイスト、サザンオールスターズと言ったいままで全く知らなかった「ニューミュージック」(注2) のアーティストの存在に驚いた。特にサザンオールスターズは衝撃的だった。
 それまでタブーとされていた「何言ってんだか分からない」歌詞、BUTキャッチーなメロディー。  以来私はサザンのファンになった。

    以降、私は「ザ ベストテン」にのめり込んだ。
 1979年(昭和54年)2月9日からランクインする曲をテープに録音し始めた。これは、以降最終回まで、10年間続いた。・・・・それは、最初は歌を覚えるためだけだった。しかし、根っからの目立ちたがり屋・・・・歌を覚えると、小学校の「お楽しみ会」の「のど自慢大会」で歌い始めた。
そんな1980年(昭和55年)12月のある日,いつもの「お楽しみ会」の「のど自慢大会」のために、クラスの誰かが,「月刊 明星」の「歌本」(注3) を持って来た。
  
      −−−−すごい!−−−−
 
 新曲を含め,ヒット曲がいっぱい載っている・・・しかも楽譜付きで・・・。そして、私は「明星」にのめり込んだ。もちろん、メインは「歌本」目当てだ。おかげで,コードネームも覚え,譜面も完全にマスターした。
 明星は以降,1988年(昭和63年)11月まで買いつづけた。


 時を同じくして、私は「ザ ベストテン」をただ見て,新曲を録音する事にすこし物足りなさを感じていた。

      −−−−そうだ! ランキングを記録して,折れ線グラフを作ってみよう!−−−−
  
 その閃きより1981年(昭和56年)1月8日からランキングの記録が始まった。
 当初は、曲目のみ1位〜20位の記録だけだったが,8月6日からベストテンのみだけ得点付きとなった。11月からは1位〜20位まで曲目と得点付きになった。以降、最終回まで続く事になる。
 当時、こんな「アホ」なことやってるの、日本中で「ワシ」だけかと思っていたが,後々実際かなりいることを知ることになる。

  −−−話はそれるが,最終回まで9年間毎週続けるのは,それなりの苦労があった。83年、84年と相次いで,父方、母方の祖父が亡くなった。しかもなぜか、いつも水曜日。木曜は通夜であった。
 But! 私はお経の流れる中、一人テレビにかじりついていた。ビデオがなかった故であるが,我ながらばちあたりな孫である。
 その他,修学旅行にあたったり・・・・。結構迷惑を顧みず,テレビを見ていた−−−−


  当時、私はベストテンの記録ノートを翌日学校に持っていき,友達と談笑するのが,無類の楽しみであった。しかし、そんな81年の暮れのある日。友達の一人がベストテンとは他に「ラジオ」のベストテン番組を聴いているのが分かった。
         
      −−−−ラジオでもそんなのやってるのか−−−−

負けず嫌いの私は、早速新聞のラジオ欄を読み漁った。
 当時私は福島に住んでおり,東京のラジオ局は昼間は電波障害でほとんど入らなかったが,夜,障害が少なくなると何とか入った。
 その中で,TBSラジオの夜9:00〜でOAしていた「ザ ヒットパレード 毎日がベストテン」(注4) がいちばん聴きやすく、しかも面白かった。
この番組,文字通り毎日ジャンル別のベストテンを発表する番組で,木曜以外毎日聴いて、ランキングをノートに記録した。


     −−−−そうこうしていた1982年(昭和57年)7月私は千葉に引っ越した。
 このことがさらに私をディープな世界へ進ませることになる。
 当然の事ながら、千葉に来た事で,東京キー局のラジオを終日、いままでと比べ物にならないぐらい、いい音で聴けるようになった。
 私はラジオ小僧となった。
 当時、ラジオの世界ではランキング番組最盛期で、各局2〜3番組はランキング番組を持っていた。しかも週末に集中しており,土日だけで、計6つものランキング番組をOAしていた。

土曜日 @コーセー歌謡ベストテン FM東京 13:00〜14:00 注5
Aオリコン全国ヒット速報 ニッポン放送 14:00〜16:00 注6
B全国歌謡ベストテン 文化放送 16:00〜17:00 注7
日曜日 C学校ぐるみ放課後ベストテン ニッポン放送 8:00〜8:30 注8
D不二家歌謡ベストテン ニッポン放送 9:00〜10:00 注9
E決定!全日本歌謡選抜 文化放送 13:00〜16:00 注10

私は全て聴いていた。勿論,当時「部活」に入っていたので,土曜日はあまり聴けなかったかが・・・・

 この中で後にわたる決定的な出会いをした番組があった。
 「オリコン全国ヒット速報」である。
その他の番組は,単なるランキングの発表だけで,基準は何にあるのかハッキリしなかった。しかし、「オリコン〜」だけは、「オリコンチャート」をそのまま発表していた。
 「一週間の売上枚数は○万○○○○枚でした・・・」という曲紹介の前のコメントが非常によかった。
 他,この番組で「オリコンウイークリー」なる雑誌があることを知った。
 ・・・・・とたん,私は欲しくなり,街の本屋をはしごした。
 BUT! ・・・・どこにも見あたらない。約2年間さがしまわった。

・・・・ある日,レコード屋で、レコードを買ったら「オマケ」にチラシを丸めたようなものをくれた。
        
        −−−−どうせいつものチラシだろう−−−−

と思い,捨てようとしたら表紙に「オリコンウイークリー」の文字が・・・・
 私は感激した!感激のあまり穴が空くほど隅まで読んだ。
 実はオリコンウイークリー、私の行き付けのレコード屋にかなり昔から置いてあったんだが、私は知らなかったのだ。
 それにまさか、オリコンウイークリーがあんなペラペラなチラシみたいな本(注11) しかも、ポスターみたいに丸めて売っているとは思わなかった。雑誌ということで,普通の週刊誌のようなものと思っていたのだ。
 以降
   ・ザ ベストテンの記録
   ・ラジオチャートを欠かさずチェックする
   ・オリコンチャートの分析
             とチャートマニアの王道(? 横道では?)をディープな方へと進んでいった。

BUT、世間一般の人は,その逆である。中学校までは、あんなに盛り上がっていたヒット曲の話題が,高校〜大学になるにつれ、周りの誰もがしなくなった。20歳にもなってヒット曲しか聴かない奴は、立派な「オタク」だったのである。
 大学にもなると,小心者がゆえ、友達にも話せなくなり、欲求不満がたまってきていた。
 そんな1990年(平成2年)8月のある日、オリコンウイークリーの「オリ通」コーナー「伝言板」に「オリコンヒッチャート研究会」(注12) を作ろう!と言う記事が目にとまった。私はすぐ、主催者に連絡をとり,かくして自主サークル「オリコンヒットチャート研究会」が発足した。
 別にだれが何をやるとか堅苦しい事抜きの会だったが,いつのまにか私は「チャート調査役」みたいになった。以前にもましてヒットチャートにのめり込んだ。

 その間「ザ ベストテン」も終了し、自分の中に一つの空白のようなものがあった時期だった.。
 
    −−−−今のチャートを「ザ ベストテン」がやっていたら,どんなんなっていたんかな−−−−

そんな思いつきで、シュミレーション的に自主チャートを始めた.。1991年(平成3年)1月である.。
作り始めると非常に面白かった.。
 そんなある日、また途方もないことを思いついた.。

   −−−−ベストテンの始まる前のチャートを作ったら−−−−

ちょうど国会図書館に1976年(昭和51年)以降のコンフィデンスがある事を思い出し,図書館通いを始めた.。1991(平成3年)年7月である.。
 最初は1978年まで作るつもりだった.。ベストテン放送期間中のものは、ベストテンのチャートがあれば満足だった.。
BUT!途中でまた違う考えが浮かんできた.。

   −−−−1976年から現在までのトータルチャートを作ったら面白い−−−−

この考えが浮かんでからは、1979年以降現在までの自主チャートを作らざるを得なかった.。なぜなら、作成法はベストテンと同じであったが,、得点係数そのものは,、オリジナルのものだったからである.。

 かくして、1999年(平成11年)12月、構想8年で、ほぼ自主チャートが出来あがった.。

    そして今,、インターネットを通じて自主チャートを公開します.。




      注 釈 説 明
注1 「ポールモーリア」
 フランスのイージーリスニング界の巨匠.。現在もグランドオーケストラを率い活動中。ヒット曲に「オリーブの首飾り」「恋はみずいろ」「涙のトップカータ」など。
 「恋はみずいろ」は68年ビルボード誌で5週連続1位獲得。
注2 「ニューミュージック」
 70年代中盤、それまでの「フォーク」とは毛色が違った,16BEATの軽快な曲調が出てきた。当初、このような今までのいわいる四畳半フォークとは異なる曲調をジャンルづけし、「ニューミュージック」と定義した。ユーミン、井上陽水などが雄といえる。私が聴き始めた、78年当時は、ロック、フォークを含め、アイドル、演歌の「歌謡曲」に対抗して、総括して「ニューミュージック」としていた。現在は演歌を除くポップス、ロックすべてをJ−POPに総括しており,、「ニューミュージック」は死語。
 
注3 「月刊 明星の歌本」
 「YOUNG SONG」通称「ヤンソン」。当時の小中生のバイブル。当時カラオケボックスなんてなかったんで、ヤンソン片手に歌を覚えたもんだ.。人気投票なんかのコーナーも人気があった.。私は,、譜面付(しかも見やすい)ところが気に入っていた.。
注4 「ザ ヒットパレード 毎日がベストテン」
 TBSラジオで79年からOAしていたランキング番組。文字通り、毎日ジャンル別にランクを発表していた.。
私が聴き始めた81年末頃は、月曜日「ニューミュージックベストテン」、火曜日「有線放送ベストテン」、水曜日「ヤングアイドルベストテン」、木曜日「演歌ベストテン」、金曜日「総合ベストテン」というラインナップ。
 当時D.Jは小川哲哉が勤めていた。
注5 「コーセー歌謡ベストテン」
 当時FM局でOAされていた、唯一の「邦楽」ヒットチャート番組。結構、意外な曲が1位になったりしていた。一体なにを基準にしていたんだろう。
 現在は「Vodafoneカウントダウンジャパン」として、同時刻に残っている.
注6 「オリコン全国ヒット速報」
 ニッポン放送でOAされていた、オリコンチャートのランキング番組。この番組で「オリコンウイークリー」の存在を知る。私は82年から聴き始めたが、私の知るところ77年くらいからマンモスワイドとして放送されていた。
私が聴き始めたころのD.Jは、湯浅明と石川みゆき 両アナ。当時新人石川みゆきアナは、いつも湯浅アナにいぢめられていた。
注7 「全国歌謡ベストテン」
 文化放送でOAされている、ランキング番組の老舗中の老舗。開始が1960年代。番組内容が、石膏で固まったように全く変わらない.。D.Jはいろいろ変わったが、私が聴き始めた頃は高島忠夫。
 たしか、今もOAしているはずだが・・・。
注8 「学校ぐるみ放課後ベストテン」
 変わった題名の番組だが、全国の小中高校の「放送部」に自分の学校のランキングを作ってもらい、集計したもの・・・・だったのだが、なぜか司会の柏原芳恵の曲がいつも1位だった。司会は他に、くり万太郎アナ。
注9 「不二家歌謡ベストテン」
 ロイジェームスのD.Jで1970年代人気があったランキング番組。私が聴き始めた、82年10月頃は、ロイジェームスさんは引退しており、いまに哲夫アナが継いでいた。
 内容は、オーソドックスなランキング番組。
注10 「決定!全日本歌謡選抜」
 小川哲哉のなれなれしいD.Jで人気があった(後にとんねるずもまねしていた)、ランキング番組。当時は破格の50位からのチャート発表。しかも新曲紹介が非常に早く、この番組で新曲情報を仕入れていた。
 現在も金曜夜に移動し、「FRYDAY スーパーカウントダウン50」としてOA中。
注11 「オリコンウイークリー」
 オリコンで出版している、週刊情報誌.。「オリジナルコンフィデンス」の姉妹版。79年8月創刊、現在は通巻1200号を突破した。最近は、フォルムが週刊誌らしくなったが、以前はA3の大型で、ページ数が少なく、ぺらぺらだったで、丸めて売られることも多々あった。紙面も新聞のようだったので、「オリコン新聞」とも呼ばれていた。
94年から「The Ichiban」に名称変更し、現在は「W.O」(ウイークリーオリコン)
注12 「オリコンチャート研究会」
 オリコンチャート好きで1990年夏に結成した、自主サークル。研究会と言っても、別段の研究はしていない.。おしゃべり中心のサークルである。
いままで何人となく、出入りが激しかったが,核のメンバーは私を含めた不動の3人のみである。3人とも年齢が近いせいか、話題になる年代も同じようである。
 2000年7月リーダーの急逝により活動中止。ただし、ネット上を中心に再開したい意向あり。
 ここのサイトも、これの一環と考えていただければ幸いである。